言葉やら人やら私について

歴史と言葉と音楽を愛する学生が、その時々で感じたことや学んだことを忘備録的に書き留めていくブログです。テーマは散文的でありますが、一つの記事できちんと完結するよう心掛けます。

ソグド人はどこへ流れていったのか

紀元前六世紀からその存在が確認され、シルクロードの経済商業圏の中心を担っていたソグド人は、現在ではタジキスタンのヤグノーブ渓谷に住む三千ばかりの住民がその末裔といわれ、彼らに話されるヤグノーブ語がソグド語の名残だという。ソグド人は一体どこへと向かったのか。

 

ソグド人の興亡として、商人としての地位に陰りが見え出したのは中国唐王朝玄宗皇帝の治世に起きた「安史の乱」(755~763)の時である。これは范陽の地方統治を任されていた節度使安禄山とその部下である史思明とその子、史朝義を中心とした反乱である。反乱開始から僅か一年で都の長安を占領するといった破竹の勢いだった安禄山陣営であったが、唐とウイグルの共闘の下、763年にその鎮圧が完了する。

 

国史において、これは諸反乱の一つのように映るが、ソグド人の今後の趨勢にとって大きな意味を有していた。というのも、安禄山はブハラ系のソグド人であり、史思明もサマルカンド南方のキシュ系ソグド人の混血ではないかと言われているためだ。元々ソグド人は唐を含むユーラシア諸地方の王朝の外交や通商政策を裏から動かしてきた存在として、漢人から反感を持たれていた。だか、ここでソグド人の反乱という見出しは漢人の怒りを買うには十分すぎる出来事だった。ソグド人は安史の乱後大きな弾圧を受け、唐の地を逃れる流民となる。

 

ここで、ソグド人の動きとして、大まかに二つに分けることが出来る。一つはシルクロード東部、すなわち唐圏域に居住していたソグド人、もう一つは中央アジアのソグディアナに居住していたソグド人である。前者は、安史の乱をきっかけとして唐圏域を離れていったが、その多くは西ウイグル王国や甘州ウイグル王国や、五代の沙陀諸王朝で商業を継続したり、武人となった事実が発見されている。後者は、751年のタラス河畔の戦いで唐に勝利したイスラーム帝国アッバース朝の直接支配下に入り、イスラーム化の進行と共に、次第にソグド人としての固有の文化や習慣、独自性が失われていったといわれている。

 

では、ソグド人は消滅したといえるのだろうか。上記で見てきたように、ソグド人は「滅亡」したという表記はいささか語弊があるように見える。ソグディアナのソグド人も、シルクロード東部のソグド人も、消滅したのではなく、他民族内に融和・融解していったのだ。現代にもソグドの文化が反映されている要素は幾つかあり、例えば、ソグド文字はほぼ同じ形のままウイグル文字へ、ウイグル文字はモンゴル文字へ、更にはそこから満州文字へと、清朝の時代に至るまで色濃くソグドの痕跡は残されている。また、ソグドの商人たちが形成した広域に渡る経済ネットワークは、現代におけるグローバリズムの様相にも重なる点があり、ソグドの血は途絶えたかもしれないが、その生き方や記憶はその後を生きる人々の中で生き続けているのかもしれない。