言葉やら人やら私について

歴史と言葉と音楽を愛する学生が、その時々で感じたことや学んだことを忘備録的に書き留めていくブログです。テーマは散文的でありますが、一つの記事できちんと完結するよう心掛けます。

劉邦になりたかった男

 

「高祖ハ、沛ノ豊邑ノ中陽里ノ人ナリ。姓ハ劉氏。字ハ季。父ハ太公ト曰ヒ、母ハ劉媼ト曰フ。」

 

   これは、司馬遷の著にして中国二十四史の第一、『史記』に記された漢の始祖、劉邦について述べられた一節である。字とはすなわち名前のことであるが、「季」とは単に末っ子という意味であり、「太公」はじいさまとでも言おうか。さらには、「劉媼」とは、劉氏のばあさまとしか言いようがない。つまり、中国最初の統一王朝といえる秦朝の滅亡後、大漢帝国とも称された漢王朝の始祖のルーツは「名字は劉で、名前は末っ子、父の名前はじいさまといい、母の名前は劉ばあさまという」という、有象無象の、そこら辺に生えている雑草の如き一人であったという。
   皇帝の出自として、これほどまでに無情にも色なく記された皇帝は漢の初代皇帝高祖劉邦をおいて他にないが、同様な出自というならば、もう一人、はるか15世紀もの時を経、同じく劉邦の郷里、沛を祖籍とし、豪州貧農家の下生まれた男がいた。その名は朱元璋元朝滅亡後、明王朝(1368〜1644)の始祖洪武帝となり大明帝国の礎を築いた男である。元末に起きた紅巾の乱に乗じて勢力を拡大し、中国統一を成し遂げた男は、中国史上もっとも誉れ高き皇帝が一人、清の康熙帝に「治は唐・宋より隆し」と言わしめた。一方、清代中期の歴史家趙翼曰く「けだし明祖は一身にして聖賢・豪傑・盗賊の性を併せ持っていた人物であった」とも評されている。果たして、この相容れない三つの要素を同時に備えた朱元璋とはどのような人物であったのだろう。


   1328年に生まれた朱元璋がその40年後、明の初代皇帝に至るまでの間、そこには貧困と流浪、そして闘争の日々があった。貧農家の四男として生まれた朱元璋は、飢饉や疫病により数人の兄弟の他家族全員を失い、弱冠二十歳にして流浪の旅に出る。しかし、父母を思う気持ち故、旅に出て3年余にして故郷の僧房へと帰郷する。それは白蓮教徒による紅巾の乱が勃発する頃であり、首謀者である白蓮教教主、韓林童が処断された後紅巾軍を率いた劉福通の配下である郭子興が豪州を占領した時、朱元璋はこの紅巾軍に参加することとなる。それ以降は自身の力量を遺憾なく発揮し、朱元璋の頭脳であった儒学者、李善長曰く「(漢の)劉邦のように大きな度量で、人材を抜擢し、殺人を好まざれば、天下を取れるであろう」と評している。10年強の歳月の中で勢力を拡大していき、1368年の正月、応天南郊(現南京)に建築された圜丘(えんきゅう)にて即位の儀を行った。国号は明、年号は洪武とし、皇帝の座に就いた。

   さて、明朝は1368年から1644年までのおよそ300年間に渡る長期王朝となるわけだが、この「明」という名前は王朝の縁の土地でも無ければ氏族の名前でもない。これは前の元王朝に倣い、その理念によって国号をつけ、洪武帝は礼によって国を統治しようとした。六諭を制定し民衆に音読させ、また、戸籍や土地を把握するため魚鱗図冊が行われた。農民は同じく農民出身である洪武帝に対し、生活の改善が図られるのではないかという期待を持っていたが、現実は紅巾軍の時代に自らを支えてくれた地主や郷紳への気遣いとして彼らへの特権を認めたため、農民たちに大きな恩恵があるわけではなかったが、洪武帝による戦乱の終焉は生活の安定をもたらした。
   対外政策については、当時明朝の首都は南京に位置しており重心が南方にあったといえよう。そのため北部の防衛は洪武帝の子供たちが分封という形で防衛につくことになった。衛所制によってモンゴル人を軍部に受け入れる政策も用い、元朝の遺産を効率的に活用した。例えば、元朝の首都であった大都は3代皇帝永楽帝に分封され、大都は当時モンゴル系、漢人系、西域の人々が雑居する国際都市であった。


   一方、洪武帝は中国歴史上空前絶後の恐怖政治を行った皇帝としても知られている。洪武帝にはこれまで付き従ってきた武人と学者たちという文武両面の基盤を有していたが、皇帝となった今、彼らはその皇権を脅かす存在として猜疑心となった。それが臣下への恐怖政治へと向かったのである。例えば、明初期の1376年には「空印の獄」という不正摘発事件が起きた。これはこれまで民政、軍政で大きな力を持っていた行中書省を廃止し、皇帝直属の役所を各地に設置するための一貫であったが、この際慣例で行われていた事務処理を不正と称し、数千人もの地方官が処刑あるいは左遷された。
   また、1380年には中書省の丞相であった胡惟庸を謀反の罪で捕らえ、彼に関連する人々およそ1万5千人が同様に処断を受けた。この大獄に関連して10年後には李善長までもが処刑されてしまう。更にはその3年後、昔からの側近である武将の藍玉に対しても謀反の罪で処刑し、この時もおよそ数万人が粛清された。趙翼曰く「洪武帝はいずれ自分を引き継ぐ子、孫に禍根を残すまいとしてこの大獄をなした」という。


   貧困の出自を持ち、英雄さながら明を建国し、国の礎を築く一方晩年は猜疑心に苛まれ稀代の大量殺人を行った。聖賢、豪傑、盗賊というのはこれ故なのだろう。ただ、そこには今なお強く薫る人間臭さを私は感じる。人生の目的を憂えた少年期、志を見つけ反乱軍に加入した青年期、皇帝となり国をまとめようとした中年期、そして信じられるものがいなくなり不安を感じる老年期、これら全ては決して特別な人間のみが享受することではなく万人に共通する事柄であるのではないだろうか。ただ、朱元璋はそのスケールにおいて、中華の頂点、すなわち天命を授かったものとしてであった。この中原を取りまとめ夷を漢化するという大役は歴代皇帝全員の夢であり、決して一人では終えることは無かった。朱元璋もまたそのような一人であり、一時代を終わらせた者、そして一時代を生み出した者として、歴史に名を刻んだのだろう。

 

 

参考:『項羽と劉邦』(司馬遼太郎)、『朱元璋传』(吴晗)