言葉やら人やら私について

歴史と言葉と音楽を愛する学生が、その時々で感じたことや学んだことを忘備録的に書き留めていくブログです。テーマは散文的でありますが、一つの記事できちんと完結するよう心掛けます。

ピエロとピエレット

 

月の光の照る辻に
ピエロさびしく立ちにけり

ピエロの姿白ければ
月の光に濡れにけり

あたりしみじみ見まはせど
コロンビイヌの影もなし

あまりに事のかなしさに
ピエロは涙ながしけり

  「月夜」(堀口大学『月光とピエロ』より)


 ペール・ラシェーズ墓地。それは、パリ郊外にあるパリ最大の墓地で、そこには数々の著名人が眠っている。ピアノの詩人と呼ばれるショパンに、「カルメン」や「アルルの女」で名高いジョルジュ・ビゼー、その他種々の偉人たちに加え、ヴィクトル・ユーゴ―の『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・ヴァルジャンもここに眠るとされる。
 そんな歴史高い場所に、死後、まことの契りを交わした二人がいる。フランス人の彫刻家・画家にして、「狂乱の時代」に売れっ子となったマリー・ローランサンと、ポーランド人の詩人・作家にして、「シュルレアリズム」という語を生み出し、「キュビズム」の先駆者の一人でもあるギヨーム・アポリネール。二人の浮世での邂逅は空蝉の如くありながら、きわめて純粋な魂同士の恋人であった。そして、そんな二人の一生を身近に見つめていた日本人が一人いた。彼の名は堀口大学(1892~1981)。象徴主義の詩人、歌人にしてフランス詩を日本にもたらし日本の近代詩に多大な影響を与えた男。フランス文学の多くを翻訳し、特にアポリネールの詩をこよなく愛した。大学は二人の悲愛を眼前にし、千々乱れる感情とともに、アポリネールへの鎮魂歌であるのか、スペイン風邪に倒れたアポリネールの死後翌年に処女詩集『月光とピエロ』を発表する。ピエロとは、元はイタリア喜劇に登場する道化にしてアルルカンとも呼ばれる。真っ白なおしろいで顔を隠し、滑稽なさまで人々に笑われることによって身すぎ世すぎを為す。本作内で言及されるピエロは、その身を自ら貶めることで人々に笑われるというピエロの悲哀を強調しているが、それは抽象的な存在としてのピエロではなく、大学は、アポリネールをピエロ、ローランサンをそのピエロの恋人、コロンビーヌ(ピエレット)と見立て、両人を象徴の世界で踊らせた。
 私は思う。一体どのような物語をして彼にこの詩を書かせたのだろうか。今回皆さんに紹介するのは、水面に映え照る夜月の如く、妖しく揺れ動くローランサンアポリネールの物語である。


 ギヨーム・アポリネール。彼は1880年にイタリアで生まれ、18歳の時パリへ赴く。当時、ピカソシャガールデュシャンといった名立たる芸術家の中で、彼は同じく人気の部類に所属していた。一方、マリー・ローランサンアポリネールから遅れて三年、パリで生まれた。幼少期から絵画を学び、その過程でパブロ・ピカソとともにキュビズムを確立させた伊達男、ジョルジュ・ブラックに見出されその道で生きていくこととなる。
 二人の出会いはこの20世紀初頭の天才二人の手引きによってであった。1907年、既にパリのモンマルトルに位置する芸術家たちが暮らす集合住宅「バトー・ラヴォワール(洗濯船)」にてローランサンアポリネールは出会った。そのとき、ピカソとブラックはアポリネールに対し「もうじきお前さんの将来の嫁さんがここに現れるぞ」と言ったといわれる。ローランサンは24歳、アポリネールは27歳に時であった。
二人はたちまち激しい恋に落ち、婚約の契りまで結ぶこととなったのだが、二人の出会いから4年後、ある冤罪事件が二人を今生の世での逢瀬に終止を打った。いわゆる「モナリザ盗難事件」である。1911年8月22日、ルーブル美術館からモナリザが無くなったとして国境の検問及び捜査が始まる。その過程で、同年9月6日にアポリネールの失踪した仲間の一人が些末な小物を同美術館から盗み売りさばいていた咎で、その共犯としてアポリネールが浮上し、翌日から一週間の拘束を受ける。当時もともと人気作家であったため、その間、新聞社やマスコミは彼のありとあらゆる素性を調べ上げ世に送り出した。それは、当時差別の対象であった「ててなしご(私生児)」であるということも含めて。
 幸いにも、同じく芸術家の駆け出しであったローランサンとの関係については言及されなかったものの、その事件故ローランサンの母、ポーリーヌは娘と彼との交際及び結婚に反対しつづけ、二年後その意志を曲げぬまま死去した。ローランサンの悲しみはこの時ほど深いことはなかったという。
 アポリネールは冤罪であったものの、それをきっかけに人生の大きな「なにか」を失ってしまった二人はそのまま破局を迎える。ローランサンの母の死と同年、アポリネールローランサンとの失恋を語り、後世にシャンソンとしても伝わる彼の代表作「ミラボー橋」をその詩集『アルコール』にて発表。以後彼が1918年スペイン風邪にてローランサンのちょうど半分の寿命でこの世を去る時まで、彼の心には永遠にローランサンが残っていた。というのも、その二年前にアポリネール第一次世界大戦の対ドイツ戦線に志願兵(一説にはローランサンとの破局後、つまらぬ結婚をしたものの彼女を忘れられぬ故の自暴自棄ともいわれている)として赴いた時、頭部に銃弾を受け平地へ戻ってきたが、常に戦場で想っていたのはローランサンその人であったという。死の直前、アポリネールの寝室には1909年ローランサンが正に運命の人であった時代に彼女自身が二人と、二人の友人を描いた絵画を自室に掲げていたとも伝えられる。
 一方、ローランサンアポリネールとの破局後、1914年、つまらぬ男と今世での契りを交わしていた。それは年上のドイツ人男爵であった。彼はいつも飲んだくれでローランサンをろくに構いもしなかった。彼とは6年後の1920年に離婚し、その後終生独身を貫くのであるが、その当時、まさに世界大戦時で、ドイツ人と結婚しドイツ国籍を得ていたローランサンはスペインへ亡命せざるを得なかった。だが、奇妙なことに、大学の父で外交官の九萬一(くまいち)の赴任先がスペインであり、そこに同行していた大学は、このヨーロッパの半島でローランサンと出会う。ローランサンはこの時、アトリエに誘うほど大学を可愛がり、フランス一の詩人として、かつての恋人であったアポリネールの作品を紹介した。ちなみに、大学は幼少時に産みの母を失い、父の後妻であるベルギー人の母の影響でフランス語の習得に力を入れていた。
 このローランサンは1956年、72歳で死去するが、その遺言には、白いドレスを身に着け、手元には赤のバラ、そして胸の上には若かりし頃、アポリネールから送られた未発表の詩や手紙を置いて、アポリネールと同じく、パリ郊外のペール・ラシェーズ墓地に埋葬してほしいと書かれていたといわれ、そのようにされた。二人が再び出会うまでには、死を通過せねばならず、またその歳月も先だったアポリネールの人生の倍必要であったが、今では、二人は青春の地であったパリの地で悠久の時をともに過ごしている。


 さて、堀口大学の処女詩集『月光とピエロ』には、三度映画化もされた小説『濹東綺譚』の著者で反骨にして耽美主義の代表である永井荷風(1879~1959)が序文を寄せている。荷風いわく「君は何故におどけたるピエロの姿としめやかなる月の光とを借り来りて其の吟懐を托し給へるや」といった。これに対する返答ではないが、大学はこの年、すなわちアポリネールが死去した翌年に、彼について「お前は新美学の探究者であった。……お前は死んだのだ。1918年11月9日、それは新芸術の喪であった。それは私の心の喪であった。それから一年経った。今日は1919年11月9日だ。そしてなおもなつかしく私はお前を思い出す」と語っている。
 当時、ローランサンは健在で、大学がローランサンの心中にアポリネールが存在し続けていたことを知っていたかは想像でしかないが、この詩集の一つに二人に対する大学の願望とも予見とも思えるような詩がある。ここではまだ言い足りないことがいくつかあるが、最後にその詩を以て二人の魂の逢瀬と大学のまなざしに思いを馳せたい。


月の光に照らされて
ピエロ、ピエレット
踊りけり、
ピエロ、ピエレット

月の光に照らされて
ピエロ、ピエレット
歌いけり、
ピエロ、ピエレット

  「月光とピエロとピエレットの唐草模様」

 

参考・引用

 

三澤洋史氏

http://cafemdr.org/RunRun-Dairy/2016-3/MDR-Diary-20161017.html

入口紀男氏

http://www.asoshiranui.net/pierrot/