言葉やら人やら私について

歴史と言葉と音楽を愛する学生が、その時々で感じたことや学んだことを忘備録的に書き留めていくブログです。テーマは散文的でありますが、一つの記事できちんと完結するよう心掛けます。

あさきよめ

あさきよめ   室生犀星

 


悔のない一日をおくることも

容易ならざる光栄である。

時間一杯に多くのものを読み、

何かを心に書きつらね、

少しもたるみなくけふを暮さうと、

身がまへてほゐるけれど、

鈍間(のろま)な生涯がのろのろと、

山また山の彼方に続いてゐる。

 


山のあなたに幸ひ住むと、

むかしの詩人はうたつたけれど、

山の向ふも山ばかりが聾(そび)え、

果には波打つ海があるだけだ。

なにごとも為しえなかつたごとく、

為しえなかつたために、

見極めがつくまで生きねばならない。

街のむかふも街だらけ、

果には山があるだけだ、

幸福なんぞあるかないかも判らないが、

生きて生き抜かなければならないことだけは確かだ。

悔のない生涯をとらへることは

その招来に於ては

容易ならざる光栄である。

 

 

 

 あさきよめとは「朝清め」、すなわち朝の掃除のことである。この詩を読めば一目瞭然であるが、直接に掃除をするわけではなく、心の中に溜まった塵や澱みをどう清めるか、という生きることになやむ人々に向けた詩である。「悔いのない一日」を往々にして送れていない私にとって、その事実自体から目を背けないことはとても勇気がいる。だか、この詩は、そんな不甲斐ない私の背をそっと、押してくれるような、不思議な暖かみと勇気をくれる。そのような詩を書いた詩人は室生犀星(むろおさいせい)。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」という一句はあまりにも有名でご存知の方もいるかもしれない。金沢三大文豪の一翼として、現代にまでその思いを残す犀星の生涯について今回は追っていきたい。

 

 

 

 室生犀星。1889年8月1日に石川県金沢市で生まれた。加賀藩足軽頭の父とその家の女中との間の子であるが、生後まもなく、同市を流れ日本海に流れ着く犀川(さいがわ)のほとりに建つ真言宗雨宝院住職、室生真乗の内縁の妻、赤井ハツに引き取られ、いわゆる「私生児」として自らの人生を始める。この時与えられた名は昭道。「犀星」を名乗るのは1906年になってからである。

1902年13歳の時、地元の高等小学校を中退し、金沢裁判所に給仕として勤めることとなる。この時、上司に多くの俳人がおり、犀星の文学への萌芽を促した。新聞などへの投稿もこれ以降のことである。

1910年に作家としての生活を決意し、上京する。それから3年は帰郷と上京を繰り返すような、身のつらさ甚だしい時期を過ごすが、1913年に北原白秋にその才を認められ、白秋の詩集に寄稿することとなる、同じく寄稿を許されていた、のち「日本近代詩の父」と語られるようになる詩人、萩原朔太郎と意気投合し、1916年に共同で同人誌『感情』を発行。1919年までに32号まで刊行し、その間犀星は注文を受けるほどの作家として認知されるようになる。1929年には自身初の句集『魚眼洞発句集』を刊行に至る。

1930年代以降は主に小説作品を多く手掛け、処女小説『性に目覚める頃』(1933年)は自身の幼少期をモデルとした作品となっており、以降も自らの経験に基づいた作品を輩出する。その中でも『あにいもうと』(1935年)、『杏っ子』(1958年)、『火の魚』(1960年)は幾度も映画化やドラマ化がなされた。

1941年には菊池寛賞を受賞した犀星であったが、以降逝去する1962年まで決して故郷金沢に帰郷することはなかったという。理想主義に区別される犀星の作風について、金沢市にある室生犀星記念館曰く「故郷の山河に対する深い思いや、小さな命、弱いものへの慈しみの心があふれ、人生への力強い賛歌ともなっている」と語っている。

 

 

 

さて、「あさきよめ」について、一読して頂く以上に私が語れることもないのであるが、ここでいわれる「山のあなたに幸ひ住むと、むかしの詩人はうたつたけれど」とは、ドイツの詩人、カール・ブッセの訳詞「山のあなた」であると考えられる。訳詞を付けたのは日本の近代文学史の最初期に活躍し海外作品を後の文人たちに紹介した詩人にして翻訳家、上田敏である。以下にその全文を記そう。

 

 


山のあなた   カール・ブッセ(上田敏訳詞)

 


山のあなたの空遠く

「幸」(さいはひ)住むと人のいふ。

噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、

涙さしぐみ、かへりきぬ。

山のあなたになほ遠く

 

 

 

 「あなた」とは「彼方」、すなわち「はるか向こう」という意味である。「山の彼方の向こうには幸せに暮らすという人がいると聞き、我も探しにいくのだが、そんなところは見つからず、涙流して帰ってきた。(幸せがあるという)山の彼方はより遠くなのだろうか」とでも読めようか。多くの評は、この作品は反語的に「幸せは己の内に見出せる」と語っており、それを絶妙に表した作品だと考えているのだが、犀星は、この「涙さしぐみ、かえりきぬ」人に心思うところがあったのではないだろうか。悔いのない一日はましてや、悔いのない生涯なぞ送れようものなら、それは奇跡という他ない。しかし、訪れないのであるから奇跡でもある。人間一人の生は、真っ暗闇の宇宙の中を、自らの感性を頼りに泳ぎ、一筋の光を見つけることだと私個人は思っている。このことを考えるとき、私の頭の中には福島県いわき市生まれの「蛙の詩人」とも名高い詩人、草野心平の詩「わが抒情詩」の冒頭を思い出す。

 


 くらあい天(そら)だ底なしの。

 くらあい道だはてのない。

 


 これは終戦直後、南京から引き揚げてきた心平が焼け野原の日本を見て以降初の詩集『日本砂漠』に収められている。『日本砂漠』については本詩以外未読であるため、語れるところはないが、なんとなく、この二節は今なお人々の生きている世界をメタファー的に叙述しているように私には感じられる。そんな世界を一人ぼっちで歩かねばならない人は、いったい喜びや幸福の10倍も、100倍も、彼の人を虎視眈々と狙い、渇きや絶望を与えうる人生(そうでない人は「幸いである」)に、どう立ち向かってゆけばよいのか。現実は現実で否定しようもないのだが、それを踏まえてなお「生きて生き抜かなければならないことだけは確かだ」と背を押す室生犀星の「あさきよめ」だと私はとらえている。すっと、背筋を伸ばしてみようと(たとえそれが一瞬であろうとも)読後思わせてくれる不思議なまろみを室生犀星は与えてくれる。