言葉やら人やら私について

歴史と言葉と音楽を愛する学生が、その時々で感じたことや学んだことを忘備録的に書き留めていくブログです。テーマは散文的でありますが、一つの記事できちんと完結するよう心掛けます。

朝鮮建国神話

 

   皆さんはどこかで「中国4000年の歴史」、或いは「韓国5000年の歴史」といった言葉を聞いたことがあるだろうか。いつどこで、どのような文脈で聞いたかはここでは問わないが、そこでの根拠と意味はいったいなんなのであろうか。中国の歴史について、日本では一般的に殷王朝がその起源だと説明され、それはおおよそ紀元前17世紀である。とすれば、目安3000年強の歴史と言えるだろうが、中国人に言わせれば、殷王朝の前の伝説上の王朝、夏を忘れているという。すなわち、紀元前20世紀頃、中国の神話伝説上語られる三皇五帝が一人、顓頊(センギョク)を祖父に持ち「治水の神」とも称される夏朝創始者、兎から始まり、17代目にして殷の湯王に滅ぼされる暴君、桀(ケツ)までの471年を忘れていると。さらに言えば、その三皇五帝の時代、すなわち、紀元前2510年から紀元前2448年まで中国を統一した五帝の初代、黄帝と、それ以前の三皇の時代を入れなければと。そうすると4000年強、さらには5000年ともいえるかもしれない。考古学的には、近年、殷以前にも王朝の存在が確認されているが、それが夏王朝であるのか、また、紀元前20世紀から続いてきたのかは不明である。現在、これらの根拠は司馬遷の『史記』で言及されているにすぎない。
   また、韓国(朝鮮)について、「5000年」というのは、朝鮮建国神話の元年、すなわち、紀元前2333年を指しているのであり、そうすると「韓国4341年の歴史」が正確にはあるのだが、これについても神話的挿話であり、考古学的に証明されてはいない。実際科学的に言及できるのは神話上最初の檀君(タングン)朝鮮、箕子(キジャ)朝鮮の後登場する衛氏(ウィシ)朝鮮からであり、その建国は紀元前194年頃と言われており、そこから数えるならば、朝鮮の歴史は2200年ばかりと大きな乖離が生じる。
   私自身は歴史の長さが民族の優劣を決める素材ではなく、また比べるものでもないと信じている。ここで重要なことは、民族や社会の起源を探求する際、「歴史的事実」ではなく「信仰的事実」が各々の「民族意識」をなすということである。それ自身はどの社会でも否定されるべきではないだろうし、同時に各民族の誇りとなせばよろしいのではないだろうか。日本の起源に当てはめても、日本初代天皇神武天皇即位を紀元前660年としているが、考古学的には縄文晩期から弥生初期といわれ、それ以前の日本神話も含めるなら、それこそ「歴史的事実」からは程遠く、やはり「信仰的事実」という民族意識の一根拠として、諸民族内で共有される物語なのであろう。
   今回は、様々ある建国神話の中から、日本の隣国、韓国(朝鮮)の建国神話についてお話ししたいと思う。世界史履修者でも、そこまで深く触れられない韓国史の起源を簡単ながら辿ってみたい(以降すべて「朝鮮」で統一する)。


   神話の時代の朝鮮は「古朝鮮」と呼ばれていた。それは二つの王朝を指すのだが、一つは紀元前2333年10月3日に始まったという檀君朝鮮と、紀元前1122年にその檀君から王位を引き継いだ中国殷の賢人、箕子から始まる箕子朝鮮である。まずは前者についてその興りを見ていこう。
   日本の古代史の根拠は『古事記』や『日本書紀』であり、中国は『史記』や『管子』といわれるように、朝鮮にも高麗の僧、一然(イリョン)が記したといわれる『三国遺事』がある。この『遺事』いわく、朝鮮は、半島北部にある太伯山(「太伯山」は原文のままで今の妙香山を指しているが、韓国における教育では「白頭山」と教えられている場合がある)に光臨した天帝(桓因;ファニン)の子、桓雄(ファヌン)と、元々熊であり、桓雄によって人の女となった熊女(ウンニョ)との子にして天孫である檀君がその建国を宣言した。天帝とはインドラに通じ、「強力な神々の中の神」という意である。その天帝、桓因が人間界に興味を持ち、その子桓雄に3つの天符印(三種の神器のようなもので、剣・鏡・鈴だといわれている)と3000人の供、それに風伯(風を司る神)・雨師(雨を司る神)・雲師(雲を司る神)の三神を伴って人間界を治めよと命じた。桓雄は天帝のいうとおり、人間界、太伯山の頂に祀られてあった神檀樹に降り、その一帯を「神市」と定め、人間界の教化を始めた。桓雄が三神とともに人間界を治めているとき、一頭の虎と一頭の熊が桓雄の元を訪れ「人になりたい」と請うた。そこで桓雄は「霊艾(もぐさ、ヨモギ)一束と蒜(ニンニク)20個を持ち、日光を避け100日間こもることができれば人にしてやろう」と言った。二頭はそれぞれ霊艾と蒜を携え洞窟にこもるのだが、虎は熊よりも先に耐え切れず洞窟を出てしまい、残った熊はこもってから21日後人の女の姿となった。その後、熊は桓因に人として子をなしたいと懇願し、同じく人の姿に形を変えた桓雄と情を交え、生まれた子に檀君王倹(王倹はワンコムといい、「王、首長」の意)と名付けたのだ。
   このようにして朝鮮最初の王朝は始まり、中国五帝が一人、堯帝の即位50年に平壌に遷都、檀君はこの時国号を「朝鮮」と定めた。それから、時代ははるかに進み、中国周王朝の始祖、武王の即位後、武王によって滅ぼされた殷の臣下にして賢人、箕子に朝鮮を封じ山にこもった。それから檀君がこの世を去ったのは1908歳の時だったという。

   さて、次の王朝、箕子朝鮮については、紀元前1122年から紀元前194年までの超長期王朝だったと歴史書は記す。文聖王と称された箕子から41代続き、箕子王朝最後の王、箕準(キジュン)の時、現存するとされる朝鮮最初の王朝、衛氏朝鮮を打ち立てる始祖にして中国、燕から来たと伝えられる男、衛満に敗れ伝説は幕を閉じる。
   この箕子朝鮮について、いまでも諸説あるのが、なぜ朝鮮の王朝が中国殷の遺臣、箕子をその王倹として招いたかである。これについては、主に二つの学説があり、一つは「東来説」である(秦の博士、伏勝が記した『尚書大伝』による)。これは、殷の紂王(最後の王)の叔父であった箕子が、周の武王に降ることをよしとせず、自由の身にされたのち、周を逃れ朝鮮に渡り自ら建国したという説である。武王は箕子の建国を認めたため、箕子もその好意に応えるべく、武王に拝謁し、結果的に武王の臣下であることをみとめる恰好になった。
   それに対し、箕子が始祖だというのは後世の付会だとする説が東来説に対する否定と、現在の大勢となっている。これは「王室の始祖仮飾説」ともいい、上記の準王のあまりに弱い印象による系譜の格を高めるために、後世の王朝や歴史家が「箕子」を登場させたのではないかという説である。中国史的にもこの説は悪い話ではなく、「物語」としてより整合性は増すともいわれている。
   箕子朝鮮について、このようなあいまいな話があるのは、当時代を記す書物が『三国遺事』と、高麗末期の李承休によって1287年に編纂された『帝王韻記』の二書にしかなく、そこですら明確な言及がなされていないためである。その他の歴史書にも「箕子」の字は登場するが、それが古朝鮮を筋道だって説明するものではない。箕子朝鮮の時代に朝鮮に社会と人の暮らしがあったことは証明されていても、それが神話通りの物語であるかは今日まで謎のままである。


   以上が朝鮮建国神話として伝えられる「古朝鮮」の物語である。なるべく単純化して説明をしたつもりであるが、なお多くの疑問が残ることはいうまでもない。私自身朝鮮史を学習する過程でそのことを同様に感じた。しかし、古代における歴史の正統性を問うのはナンセンスなように思える。自らの、そして他の起源に浪漫的まなざしを傾け、その違いには驚きと楽しみを、同じところには共感をもって思いを馳せればいいのではないだろうか。日本の神話も、朝鮮の神話も、中国の神話も、私には心躍らせる痛快さがあるし、その登場人物たちの個性に、「やはり、我々と同じ人間の物語なのだな」と、ヒトとして、種としての郷愁を見出さざるをえない。

 

参考・引用

金両基『物語 韓国の歴史』