言葉やら人やら私について

歴史と言葉と音楽を愛する学生が、その時々で感じたことや学んだことを忘備録的に書き留めていくブログです。テーマは散文的でありますが、一つの記事できちんと完結するよう心掛けます。

愛と自由と美に生きた詩人

 


 他的人生观真是一种“单纯信仰”,这里面中有三个大字,
     一个是爱,一个是自由,一个是美。

 

 

 この語句は近代中国において新文化運動の一翼を担った中華民国の文化人・胡適が、中国の詩人・散文家にしてアジア人初のノーベル文学賞を受賞したインド人作家・タゴールの作品「The Crescent Moon」をその名に由来する新文学集団「新月派」詩人・徐志摩に送った追悼の一節である。そこに記されるは、『彼の人生観は真にひとつの「単純信仰」であり、そこには三つの言葉がある、すなわち、愛と、自由と、美である』。
 米英での留学をきっかけにロマン主義・唯美派に生涯を捧げる覚悟を持ち、「愛恨糾葛」極まる3人の女性との逸話を抱擁しながらも飛行機事故により僅か34歳でその生涯に幕を下ろした中国の伝説的詩人、徐志摩の生涯とは愛と、自由と、美を讃歌し、志向し、苦悩した流浪の風の如くであった。

 


 徐志摩は、1897年1月15日、中国浙江省海寧市の裕福な家庭に生まれる。それゆえ幼少の時から高水準の教育を受け、1915年、杭州高級中学(高等学校)を卒業した後、上海の沪江大学へ進学。さらには北洋大学で法学を学ぶことになるが、法律学部が北京大学に吸収合併される由、北京大学でも学んだ。1918年、北京大学を卒業した後、アメリカのクラーク大学へ留学し銀行学を僅か10か月で修め、ニューヨークのコロンビア大学研究院へ立て続いて進学し経済学を学ぶ。その三年後、特別性としてイギリスのケンブリッジ大学(キングズ・カレッジ)へ入学し政治経済学を研究。この時に徐志摩は西方教育の薫陶を深く受け、ロマン主義と唯美派(耽美主義、日本では永井荷風堀口大学)に傾倒した。一年の英国生活を経たのち、北京で教鞭を執ることになった徐志摩は文学社団「新月社」を設立し文学革命、すなわち白話運動を展開する。ここには彼の師である梁啓超から、その子にして友人の梁思成、胡適シェークスピアの翻訳全集を出版した文人・梁実秋なども参加し、詩の近代化に努めた。その後は中国各地の大学の教員として転々とするが、1931年に飛行機事故により逝去した。

 


 さて、夭折した民国時代の若き天才は、同時代の文人や知識人に愛されるばかりでなく、自らも美しいもの、純なるものを愛する熱風であった。彼はその刹那的な生涯の内、三人の女性と関係があった。しかし、内実は、非情ばかりを向け、その献身にも関わらず離婚に至った悲恋の女・張幼儀、その妻を捨ててまでも手に入れんと欲した無窮の恋人・林徽因、そして彼女と結ばれることの無かった失意の内に見出した最後の不倫相手にして情熱の女・陸小曼。三人の内、林徽因と陸小曼は「金嗓子(金の喉)」と称される映画女優にして歌手であった周璇と「默片影星(無声映画の星)」と名高い阮玲玉と合わせて、「民国四大美女」の二人でもある。
 初妻である張幼儀とは、彼女が15歳、徐志摩が18歳の時、家族の縁談により結婚する。徐志摩が渡米する1918年には第一子を設け、1921年から1922年のイギリス留学へは同行するほどの献身ぶりであったが、そのイギリスで出会った二人目の女性、林徽因との邂逅をきっかけに徐志摩は張幼儀に冷酷な態度を示すようになった。一つのエピソードにこんな話がある。イギリス留学の折、張幼儀は第二子をその胎内に宿し、そのことを夫である徐志摩に伝えた。すると徐志摩は一言「堕ろしなさい」と吐き捨てた。張幼儀はそれに対し「堕胎は私自身への負担も大きく母子ともに死んでしまうと人から聞き及びました」と訴えたが、徐志摩は「汽車に乗るだけで死んでしまう人もいるが、まさか君は汽車に乗らない人を見たとでもいうのかね」と一蹴してしまった。張幼儀が次男を生むと、すぐに離婚に踏み切り妻子共に海外に放り捨ててしまったのだった。愛と自由と美に尽くしたというが、ここではその独善性と自分本位がもっとも露呈したようにも思え、また張幼儀の悲哀の絶望と甚だしさは如何ほどであったろうか。しかし、彼女は後中国初の女性銀行運営者にして女性向けアパレルショップの経営者となった。
   そうして、妻子を捨ててまでも献身に値すると見定めた二人目の女性は早稲田大学法学部で学士を取得し、中華民国北京政府の要人であった林長民の娘・林徽因である。彼女は英国滞在後、アメリカへ留学し建築を学び、帰国後は中国の各大学で建築学の教鞭を執り、後に中華人民共和国の国章を想起し、中国建築史の祖と言わしめる。眉目秀麗でもあった林徽因自身も徐志摩に惹かれるのだが、当時中国初と言われた公式的な離婚を断行した徐志摩と結ばれることに対する社会の批判や言論に耐え切れず、徐志摩の師である梁啓超の息子梁思成と1928年に結婚し徐志摩との関係を終わらせる。一方で、徐志摩はそれまで彼女を対象にした多くの詩作を世に残した。
 林徽因の拒絶は徐志摩を失意の底の底まで落とすこととなった。別れと出会い、そして二度目の別れを果たし帰国した彼は、しかしながら、友人で軍人でもある王赓の妻であった陸小曼と運命的な邂逅を果たす。林徽因のとき同様、激しい恋に落ちる二人であったが、此度の徐志摩は誰もが驚嘆せずにはいられない情熱を示す。すなわち、友人で陸小曼の夫でもある王赓を説得し離婚させてしまったのだ。だが、元々性格や仕事による生活の不一致からその関係に悩んでもいた王赓はそれに快く応じ、陸小曼が二人に秘密裏に堕胎を行い出産能力も同時に失った1926年に離婚、そして同年の8月14日に徐志摩と陸小曼は婚約、10月3日、師梁啓超の認可を受け結婚へ至る。激烈な愛の結末であったが、徐志摩が飛行機事故でこの世を去るまでの5年間、持病の頭痛軽減のために阿片を吸引し、また奢侈品への浪費が甚だしい陸小曼のため、身を粉にして生活費を稼いだ徐志摩には喧騒の絶えない苦難の日々でもあったかもしれない。それでも、徐志摩の死亡事故を受けた後、文人画家でもあった陸小曼は亡き夫の全集をまとめ哀悼の余生を送ったという。

 


 34年の人生を風の如く、愛と、自由と、美の追求に奔走した徐志摩。倫理的には許されないこと、肯定できないこともままあるが、一方で、人の本質や生きることをその「単純信仰」に見出し描かれた徐志摩の作品には、色のない世界に鮮やかな色彩と生きる喜びを現代の私たちに与えてくれる。最後に徐志摩の代表作「僕は風がどこへ吹いていくか知らない」の原文を掲載する。中国語への理解が疎くてもその漢字の様からなんとなしに彼のメルヘンな世界観を味わうことはできるはずだ。また日本語訳付きのページのURLも追添しておく。その他の代表作「再別康橋(さらば、ケンブリッジ)」、「偶然」も同様に掲載されている(http://japanese.cri.cn/782/2015/06/29/241s238522.htm)。

 

 

 

《我不知道風是在哪一个方向吹》


 我不知道風
 是在哪一个方向吹
 我是在夢中,
 在夢的軽波里依洄。

 

 我不知道風
 是在哪一个方向吹
 我是在夢中,
 她的温存,我的迷醉。

 

 我不知道風
 是在哪一个方向吹
 我是在夢中,
 甜美是夢里的光輝。


 我不知道風
 是在哪一个方向吹
 我是在夢中,
 她的負心,我的傷悲。

 

 我不知道風
 是在哪一个方向吹
 我是在夢中,
 在夢的悲哀里心碎!

 

 我不知道風
 是在哪一个方向吹
 我是在夢中,
 黯淡是夢里的光輝。