言葉やら人やら私について

歴史と言葉と音楽を愛する学生が、その時々で感じたことや学んだことを忘備録的に書き留めていくブログです。テーマは散文的でありますが、一つの記事できちんと完結するよう心掛けます。

愛と自由と美に生きた詩人

 


 他的人生观真是一种“单纯信仰”,这里面中有三个大字,
     一个是爱,一个是自由,一个是美。

 

 

 この語句は近代中国において新文化運動の一翼を担った中華民国の文化人・胡適が、中国の詩人・散文家にしてアジア人初のノーベル文学賞を受賞したインド人作家・タゴールの作品「The Crescent Moon」をその名に由来する新文学集団「新月派」詩人・徐志摩に送った追悼の一節である。そこに記されるは、『彼の人生観は真にひとつの「単純信仰」であり、そこには三つの言葉がある、すなわち、愛と、自由と、美である』。
 米英での留学をきっかけにロマン主義・唯美派に生涯を捧げる覚悟を持ち、「愛恨糾葛」極まる3人の女性との逸話を抱擁しながらも飛行機事故により僅か34歳でその生涯に幕を下ろした中国の伝説的詩人、徐志摩の生涯とは愛と、自由と、美を讃歌し、志向し、苦悩した流浪の風の如くであった。

 


 徐志摩は、1897年1月15日、中国浙江省海寧市の裕福な家庭に生まれる。それゆえ幼少の時から高水準の教育を受け、1915年、杭州高級中学(高等学校)を卒業した後、上海の沪江大学へ進学。さらには北洋大学で法学を学ぶことになるが、法律学部が北京大学に吸収合併される由、北京大学でも学んだ。1918年、北京大学を卒業した後、アメリカのクラーク大学へ留学し銀行学を僅か10か月で修め、ニューヨークのコロンビア大学研究院へ立て続いて進学し経済学を学ぶ。その三年後、特別性としてイギリスのケンブリッジ大学(キングズ・カレッジ)へ入学し政治経済学を研究。この時に徐志摩は西方教育の薫陶を深く受け、ロマン主義と唯美派(耽美主義、日本では永井荷風堀口大学)に傾倒した。一年の英国生活を経たのち、北京で教鞭を執ることになった徐志摩は文学社団「新月社」を設立し文学革命、すなわち白話運動を展開する。ここには彼の師である梁啓超から、その子にして友人の梁思成、胡適シェークスピアの翻訳全集を出版した文人・梁実秋なども参加し、詩の近代化に努めた。その後は中国各地の大学の教員として転々とするが、1931年に飛行機事故により逝去した。

 


 さて、夭折した民国時代の若き天才は、同時代の文人や知識人に愛されるばかりでなく、自らも美しいもの、純なるものを愛する熱風であった。彼はその刹那的な生涯の内、三人の女性と関係があった。しかし、内実は、非情ばかりを向け、その献身にも関わらず離婚に至った悲恋の女・張幼儀、その妻を捨ててまでも手に入れんと欲した無窮の恋人・林徽因、そして彼女と結ばれることの無かった失意の内に見出した最後の不倫相手にして情熱の女・陸小曼。三人の内、林徽因と陸小曼は「金嗓子(金の喉)」と称される映画女優にして歌手であった周璇と「默片影星(無声映画の星)」と名高い阮玲玉と合わせて、「民国四大美女」の二人でもある。
 初妻である張幼儀とは、彼女が15歳、徐志摩が18歳の時、家族の縁談により結婚する。徐志摩が渡米する1918年には第一子を設け、1921年から1922年のイギリス留学へは同行するほどの献身ぶりであったが、そのイギリスで出会った二人目の女性、林徽因との邂逅をきっかけに徐志摩は張幼儀に冷酷な態度を示すようになった。一つのエピソードにこんな話がある。イギリス留学の折、張幼儀は第二子をその胎内に宿し、そのことを夫である徐志摩に伝えた。すると徐志摩は一言「堕ろしなさい」と吐き捨てた。張幼儀はそれに対し「堕胎は私自身への負担も大きく母子ともに死んでしまうと人から聞き及びました」と訴えたが、徐志摩は「汽車に乗るだけで死んでしまう人もいるが、まさか君は汽車に乗らない人を見たとでもいうのかね」と一蹴してしまった。張幼儀が次男を生むと、すぐに離婚に踏み切り妻子共に海外に放り捨ててしまったのだった。愛と自由と美に尽くしたというが、ここではその独善性と自分本位がもっとも露呈したようにも思え、また張幼儀の悲哀の絶望と甚だしさは如何ほどであったろうか。しかし、彼女は後中国初の女性銀行運営者にして女性向けアパレルショップの経営者となった。
   そうして、妻子を捨ててまでも献身に値すると見定めた二人目の女性は早稲田大学法学部で学士を取得し、中華民国北京政府の要人であった林長民の娘・林徽因である。彼女は英国滞在後、アメリカへ留学し建築を学び、帰国後は中国の各大学で建築学の教鞭を執り、後に中華人民共和国の国章を想起し、中国建築史の祖と言わしめる。眉目秀麗でもあった林徽因自身も徐志摩に惹かれるのだが、当時中国初と言われた公式的な離婚を断行した徐志摩と結ばれることに対する社会の批判や言論に耐え切れず、徐志摩の師である梁啓超の息子梁思成と1928年に結婚し徐志摩との関係を終わらせる。一方で、徐志摩はそれまで彼女を対象にした多くの詩作を世に残した。
 林徽因の拒絶は徐志摩を失意の底の底まで落とすこととなった。別れと出会い、そして二度目の別れを果たし帰国した彼は、しかしながら、友人で軍人でもある王赓の妻であった陸小曼と運命的な邂逅を果たす。林徽因のとき同様、激しい恋に落ちる二人であったが、此度の徐志摩は誰もが驚嘆せずにはいられない情熱を示す。すなわち、友人で陸小曼の夫でもある王赓を説得し離婚させてしまったのだ。だが、元々性格や仕事による生活の不一致からその関係に悩んでもいた王赓はそれに快く応じ、陸小曼が二人に秘密裏に堕胎を行い出産能力も同時に失った1926年に離婚、そして同年の8月14日に徐志摩と陸小曼は婚約、10月3日、師梁啓超の認可を受け結婚へ至る。激烈な愛の結末であったが、徐志摩が飛行機事故でこの世を去るまでの5年間、持病の頭痛軽減のために阿片を吸引し、また奢侈品への浪費が甚だしい陸小曼のため、身を粉にして生活費を稼いだ徐志摩には喧騒の絶えない苦難の日々でもあったかもしれない。それでも、徐志摩の死亡事故を受けた後、文人画家でもあった陸小曼は亡き夫の全集をまとめ哀悼の余生を送ったという。

 


 34年の人生を風の如く、愛と、自由と、美の追求に奔走した徐志摩。倫理的には許されないこと、肯定できないこともままあるが、一方で、人の本質や生きることをその「単純信仰」に見出し描かれた徐志摩の作品には、色のない世界に鮮やかな色彩と生きる喜びを現代の私たちに与えてくれる。最後に徐志摩の代表作「僕は風がどこへ吹いていくか知らない」の原文を掲載する。中国語への理解が疎くてもその漢字の様からなんとなしに彼のメルヘンな世界観を味わうことはできるはずだ。また日本語訳付きのページのURLも追添しておく。その他の代表作「再別康橋(さらば、ケンブリッジ)」、「偶然」も同様に掲載されている(http://japanese.cri.cn/782/2015/06/29/241s238522.htm)。

 

 

 

《我不知道風是在哪一个方向吹》


 我不知道風
 是在哪一个方向吹
 我是在夢中,
 在夢的軽波里依洄。

 

 我不知道風
 是在哪一个方向吹
 我是在夢中,
 她的温存,我的迷醉。

 

 我不知道風
 是在哪一个方向吹
 我是在夢中,
 甜美是夢里的光輝。


 我不知道風
 是在哪一个方向吹
 我是在夢中,
 她的負心,我的傷悲。

 

 我不知道風
 是在哪一个方向吹
 我是在夢中,
 在夢的悲哀里心碎!

 

 我不知道風
 是在哪一个方向吹
 我是在夢中,
 黯淡是夢里的光輝。

 

戦後現代詩の長女

なれる

 


おたがいに

なれるのは厭だなと

親しさは

どんなに深くなってもいいけれど

 


三十三歳の頃 あなたはそう言い

二十五歳の頃 わたしはそう聞いた

今まで誰からも教えられることなくきてしまった大切なこと

おもえばあれがわたしたちの出発点であったかもしれない

 


狎れる 馴れる

慣れる 狃れる

昵れる 褻れる

どれもこれもなれなれしい漢字

 


そのあたりから人と人の関係は崩れてゆき

どれほどたくさんの例を見ることになったでしょう

気づいた時にはもう遅い

愛にしかけられている怖い罠

 


おとし穴にはまってもがくこともなしに

歩いてこれたのはあなたのおかげです

親しさだけが沈殿し濃縮され

結晶の粒子は今もさらさらこぼれつづけています

 

 

 

   上記の詩は茨木のり子の死後、東伏見の自宅にて発見され刊行された詩集『歳月』の一篇「なれる」である。この詩集は生前に発表されてきた諸々の詩集とは志向性を異にし、49歳の時肝臓がんにて死別した夫へと書き綴った『会話』である。『自分の感受性くらい』や『倚(よ)りかからず』という代表作をはじめ、戦前から新世紀の頭まで時代を走り抜いた詩人であるが、松岡正剛曰く「茨木のり子はどう見ても『ふつう』なのではない。普通ではなく、ひょっとすると、こんな言葉はないけれど、なんというか『負通』なのである。負をかこつのではない。ずうっと自分の生きてきた世に負が通ってきたことを詩う」。

   では、茨木のり子という『現代詩の長女』はどうやって詩を志すようになったのか。今回は茨木のり子について見ていこうと思う。

 

 

 

   茨木のり子は1926年大正15年、すなわち昭和元年に大阪で生まれた。父親が医者であり度々転勤による引越しが相次ぐ幼少期であり、5歳の時に京都、その翌年に愛知県へと移り、大学入学までは現西尾市で育つ。1937年には11歳にして実母を亡くし後妻を受け入れるという経験も茨木のり子にとって決して小さくない出来事だったであろう。しかもそれは日中戦争開戦の年でもあり、45年の敗戦までの暮らしは茨木のり子の作品のいくつかにも深く関わっている。

   1943年、茨木のり子は帝国女子医学薬学理学専門学校(現東邦大学)の薬学部へ進学する。その三年後に繰り上げ卒業をするのだが、この間空襲や学徒動員、玉音放送やらの経験は『わたしが一番きれいだったとき』の契機となったように思う。上記の「負通」の芳香湧き上がる詩でもあり、その一節は以下のようである。

 


わたしが一番きれいだったとき

わたしの国は戦争で負けた

そんな馬鹿なことってあるものか

ブラウスの腕をまくり

卑屈な町をのし歩いた

 


   卒後、一時期劇作を志すこともあったが、1949年茨木のり子が23歳の時、医者の三浦安信と結婚して埼玉県所沢市へと移る。その翌年に詩の専門誌「詩学」に初めての詩「いさましい歌」を掲載しデビューする。その三年後の1949年には川崎洋と共に詩誌「櫂(かい)」を創刊した。この詩誌はのちに谷川俊太郎なども名を連ねる戦後日本における誌界の屋台骨ともなった。それから茨木のり子は破竹の勢いで55年に第一詩集『対話』、58年に第二詩集『見えない配達夫』を刊行し二度の転居も行う。しかし、実父の死を受け65年に刊行した詩集『鎮魂歌』、夫の死の二年後発刊し天声人語にも取り上げられた詩集『自分の感受性くらい』もこの時代に登場する。以降は単身で現西東京市東伏見を拠点に活動し、晩年1999年73歳の時に詩集『倚りかからず』を刊行し一境地への至りを見せた。逝去は2006年2月、東伏見の自宅にて。くも膜下出血であったが親戚が発見したときは寝室で眠るようであったという。

 

 

 

   今なお強く人々の心に寄り添う力と香りを放つ茨木のり子であるが、実は50代から韓国語を習い出し、その10年ばかり後には現代韓国詩の翻訳等も行っており、かなりの韓国通でもある。1986年には自身の韓国への関わりや思い、実際に韓国を旅した時に出会った人やモノとの交流のさまを綴った書籍『ハングルへの旅』を上梓している。昔からの憧れであったり歴史的興味であったりその動機は様々ありつつも、韓国語を習う理由に対し「隣の国のことばですもの」とふんわり丸め込む茨木のり子の心は常に隣人との距離感が自然と入り込んでくる。それはまさに『おたがいに なれるのは厭だなと 親しさは どんなに深くなってもいいけれど』という亡き夫のことばに支えられて人生を過ごした茨木のり子の愛の発露なのであろう。

「きちんと生きていく」

 

(中略)

ああああああ。
きのふはおれもめしをくひ。
けふまたおれはうどんをくつた。
これではまいにちくふだけで。
それはたしかにしあはせだが。
こころの穴はふさがらない。
こころの穴はきりきりいたむ。


 これは以前にもその冒頭を紹介した草野心平の詩『日本砂漠』から「わが抒情詩」の末尾である。わたしが最近送っている茫洋とした日々に重なるような気がして、久々にこの詩が目に入ったついさっき、立ち止まらずにはいられなかった。

 突然だが「生きる」とはどういうことだろうか。何が目的で、どのようにすればよいのか。また、そこに答えはあるのだろうか。いや、そもそも答えがなければならないのだろうか。学生として最後の年を迎え就活や今後の人生について思索するなかで、「生きる」ことを問い直すことが今求められているように感じられ、久々に執筆してみようと思い至った。そして、それは例の如く先人たちの言葉の海から材料を拾い上げることにしよう。

 私がいくつかの詩に触れてきているというのはこれまでの投稿を読まれた方であれば判るだろうが、「生きる」ということに言及した詩は数多にある。その言葉通りの題を持つ最も有名であろう詩は谷川俊太郎の「生きる」ではないだろうか。ここでは、シンプルに人の五感に訴え想起の潤いに富んだ「生きる」が描かれている。


生きているということ
今生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをするということ
あなたと手をつなぐこと

(中略)

すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深く拒むこと

(中略)

人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ


 一方、谷川俊太郎の盟友にしながら13年前に逝去した女流詩人、茨木のり子の一篇「内部からくさる桃」には、より厳然たる「生きる」ことのリアリズムと恐ろしさ、そしてそれに立ち向かえという訴えが描かれている。


単調なくらしに耐えること
雨だれのように単調な……

(中略)

ひとびとは探索しなければならない
山師のように 執拗に
<埋没されてあるもの>を
ひとりだけにふさわしく用意された
<生の意味>を

(中略)

内部からいつもくさってくる桃、平和

日々に失格し
日々に脱落する悪たれによって
世界は
壊滅の夢にさらされてやまない


 決して多くはないけれどもいる大切と思える人々はここ遊学の地にはおらず、地道に論文を執筆している現状は、まさに「単調なくらし」に耐えているのかもしれない。これが永遠に続くのであれば、ひたすらにこの等速直線運動は無限のなかを進みゆくだけであるが、有限の時に生きるわたしたちはその結末と次の始まりを見届ける義務があろう。のどがかわきつづける限りは。故に「探索しなければならない」。単調さの奥の奥底に流れる自分を形作るものを。まだ見つけられていない自分自身のことばを。その時、多様な解を提示する世界は、一見、官能的な紫煙の如く我々に忍び寄ってくるが、それは「夢」かもしれないことを知っていなければ「生きる」ことはより困難なものかもしれない。そのような悪をわたしたちは注意深く拒んでゆかねばならない。わたしが「わたし」であるか。今まさに、わたしはこれを見つけるのではなく「定めよ」とわたし自身に投げかけられているのだ。

 これらのことばは人によって金言にもなれば、くだらないものともなりうる。わたしには諫言であり手段であり轍である。そのように思索する内ふと、「きちんと生きていく」という言葉が浮かんできた。仕事を持ち、周囲の人を愛し、健康に留意しつつも時に紫煙に耽り、仲間と声を合わせ歌を歌い、そうやって幸せである時間の比率が不幸せな時よりも多くなる生活。わたしにとって「いきる」ことに対する一つの「応え」は「きちんと生きていく」ことで、単純に言えば「幸せに生きる」ことであろう。単調に落ちゆく雨だれの中にも色彩が生まれるかどうかは、きっと「きちんと生きていく」ことに共鳴するのだろうと思う。

 

朝鮮建国神話

 

   皆さんはどこかで「中国4000年の歴史」、或いは「韓国5000年の歴史」といった言葉を聞いたことがあるだろうか。いつどこで、どのような文脈で聞いたかはここでは問わないが、そこでの根拠と意味はいったいなんなのであろうか。中国の歴史について、日本では一般的に殷王朝がその起源だと説明され、それはおおよそ紀元前17世紀である。とすれば、目安3000年強の歴史と言えるだろうが、中国人に言わせれば、殷王朝の前の伝説上の王朝、夏を忘れているという。すなわち、紀元前20世紀頃、中国の神話伝説上語られる三皇五帝が一人、顓頊(センギョク)を祖父に持ち「治水の神」とも称される夏朝創始者、兎から始まり、17代目にして殷の湯王に滅ぼされる暴君、桀(ケツ)までの471年を忘れていると。さらに言えば、その三皇五帝の時代、すなわち、紀元前2510年から紀元前2448年まで中国を統一した五帝の初代、黄帝と、それ以前の三皇の時代を入れなければと。そうすると4000年強、さらには5000年ともいえるかもしれない。考古学的には、近年、殷以前にも王朝の存在が確認されているが、それが夏王朝であるのか、また、紀元前20世紀から続いてきたのかは不明である。現在、これらの根拠は司馬遷の『史記』で言及されているにすぎない。
   また、韓国(朝鮮)について、「5000年」というのは、朝鮮建国神話の元年、すなわち、紀元前2333年を指しているのであり、そうすると「韓国4341年の歴史」が正確にはあるのだが、これについても神話的挿話であり、考古学的に証明されてはいない。実際科学的に言及できるのは神話上最初の檀君(タングン)朝鮮、箕子(キジャ)朝鮮の後登場する衛氏(ウィシ)朝鮮からであり、その建国は紀元前194年頃と言われており、そこから数えるならば、朝鮮の歴史は2200年ばかりと大きな乖離が生じる。
   私自身は歴史の長さが民族の優劣を決める素材ではなく、また比べるものでもないと信じている。ここで重要なことは、民族や社会の起源を探求する際、「歴史的事実」ではなく「信仰的事実」が各々の「民族意識」をなすということである。それ自身はどの社会でも否定されるべきではないだろうし、同時に各民族の誇りとなせばよろしいのではないだろうか。日本の起源に当てはめても、日本初代天皇神武天皇即位を紀元前660年としているが、考古学的には縄文晩期から弥生初期といわれ、それ以前の日本神話も含めるなら、それこそ「歴史的事実」からは程遠く、やはり「信仰的事実」という民族意識の一根拠として、諸民族内で共有される物語なのであろう。
   今回は、様々ある建国神話の中から、日本の隣国、韓国(朝鮮)の建国神話についてお話ししたいと思う。世界史履修者でも、そこまで深く触れられない韓国史の起源を簡単ながら辿ってみたい(以降すべて「朝鮮」で統一する)。


   神話の時代の朝鮮は「古朝鮮」と呼ばれていた。それは二つの王朝を指すのだが、一つは紀元前2333年10月3日に始まったという檀君朝鮮と、紀元前1122年にその檀君から王位を引き継いだ中国殷の賢人、箕子から始まる箕子朝鮮である。まずは前者についてその興りを見ていこう。
   日本の古代史の根拠は『古事記』や『日本書紀』であり、中国は『史記』や『管子』といわれるように、朝鮮にも高麗の僧、一然(イリョン)が記したといわれる『三国遺事』がある。この『遺事』いわく、朝鮮は、半島北部にある太伯山(「太伯山」は原文のままで今の妙香山を指しているが、韓国における教育では「白頭山」と教えられている場合がある)に光臨した天帝(桓因;ファニン)の子、桓雄(ファヌン)と、元々熊であり、桓雄によって人の女となった熊女(ウンニョ)との子にして天孫である檀君がその建国を宣言した。天帝とはインドラに通じ、「強力な神々の中の神」という意である。その天帝、桓因が人間界に興味を持ち、その子桓雄に3つの天符印(三種の神器のようなもので、剣・鏡・鈴だといわれている)と3000人の供、それに風伯(風を司る神)・雨師(雨を司る神)・雲師(雲を司る神)の三神を伴って人間界を治めよと命じた。桓雄は天帝のいうとおり、人間界、太伯山の頂に祀られてあった神檀樹に降り、その一帯を「神市」と定め、人間界の教化を始めた。桓雄が三神とともに人間界を治めているとき、一頭の虎と一頭の熊が桓雄の元を訪れ「人になりたい」と請うた。そこで桓雄は「霊艾(もぐさ、ヨモギ)一束と蒜(ニンニク)20個を持ち、日光を避け100日間こもることができれば人にしてやろう」と言った。二頭はそれぞれ霊艾と蒜を携え洞窟にこもるのだが、虎は熊よりも先に耐え切れず洞窟を出てしまい、残った熊はこもってから21日後人の女の姿となった。その後、熊は桓因に人として子をなしたいと懇願し、同じく人の姿に形を変えた桓雄と情を交え、生まれた子に檀君王倹(王倹はワンコムといい、「王、首長」の意)と名付けたのだ。
   このようにして朝鮮最初の王朝は始まり、中国五帝が一人、堯帝の即位50年に平壌に遷都、檀君はこの時国号を「朝鮮」と定めた。それから、時代ははるかに進み、中国周王朝の始祖、武王の即位後、武王によって滅ぼされた殷の臣下にして賢人、箕子に朝鮮を封じ山にこもった。それから檀君がこの世を去ったのは1908歳の時だったという。

   さて、次の王朝、箕子朝鮮については、紀元前1122年から紀元前194年までの超長期王朝だったと歴史書は記す。文聖王と称された箕子から41代続き、箕子王朝最後の王、箕準(キジュン)の時、現存するとされる朝鮮最初の王朝、衛氏朝鮮を打ち立てる始祖にして中国、燕から来たと伝えられる男、衛満に敗れ伝説は幕を閉じる。
   この箕子朝鮮について、いまでも諸説あるのが、なぜ朝鮮の王朝が中国殷の遺臣、箕子をその王倹として招いたかである。これについては、主に二つの学説があり、一つは「東来説」である(秦の博士、伏勝が記した『尚書大伝』による)。これは、殷の紂王(最後の王)の叔父であった箕子が、周の武王に降ることをよしとせず、自由の身にされたのち、周を逃れ朝鮮に渡り自ら建国したという説である。武王は箕子の建国を認めたため、箕子もその好意に応えるべく、武王に拝謁し、結果的に武王の臣下であることをみとめる恰好になった。
   それに対し、箕子が始祖だというのは後世の付会だとする説が東来説に対する否定と、現在の大勢となっている。これは「王室の始祖仮飾説」ともいい、上記の準王のあまりに弱い印象による系譜の格を高めるために、後世の王朝や歴史家が「箕子」を登場させたのではないかという説である。中国史的にもこの説は悪い話ではなく、「物語」としてより整合性は増すともいわれている。
   箕子朝鮮について、このようなあいまいな話があるのは、当時代を記す書物が『三国遺事』と、高麗末期の李承休によって1287年に編纂された『帝王韻記』の二書にしかなく、そこですら明確な言及がなされていないためである。その他の歴史書にも「箕子」の字は登場するが、それが古朝鮮を筋道だって説明するものではない。箕子朝鮮の時代に朝鮮に社会と人の暮らしがあったことは証明されていても、それが神話通りの物語であるかは今日まで謎のままである。


   以上が朝鮮建国神話として伝えられる「古朝鮮」の物語である。なるべく単純化して説明をしたつもりであるが、なお多くの疑問が残ることはいうまでもない。私自身朝鮮史を学習する過程でそのことを同様に感じた。しかし、古代における歴史の正統性を問うのはナンセンスなように思える。自らの、そして他の起源に浪漫的まなざしを傾け、その違いには驚きと楽しみを、同じところには共感をもって思いを馳せればいいのではないだろうか。日本の神話も、朝鮮の神話も、中国の神話も、私には心躍らせる痛快さがあるし、その登場人物たちの個性に、「やはり、我々と同じ人間の物語なのだな」と、ヒトとして、種としての郷愁を見出さざるをえない。

 

参考・引用

金両基『物語 韓国の歴史』

 

「人間はな」
 言ってから、劉邦は言葉をとぎらせた。人が悲しんでいるときに顔をすり寄せてきて、お悲しいことでございましょう、とおっかぶせてくる奴ほどこまった手合いはない、と言いたかった。
「こういうときにはな」
劉邦はまた黙った。何をいっていいのか、言葉がない。
 風が、帆をゆさぶって、鳴った。
 「唄だ」
 唄はこういうときのためにあるのだ、と劉邦はいった。嬰よ、うたえ。
 嬰は、風にむかってうたった。

 

   司馬遼太郎の唯一の長編純中国歴史小説項羽と劉邦』の一節である。本隊劉邦軍が項羽軍に対し敗走に敗走を重ねる中、劉邦軍の別動隊として北方戦線を担い常勝軍団でもあった韓進軍、韓進に対し、果たして漢の頂点に自らが君臨していてよいのかと逡巡する劉邦は、彼が無頼漢としてゴロツキ暮らしをしていた時よりの同志にして劉邦軍付武将の夏侯嬰に唄を求めた。唄われるは、故郷泗水に伝わる漁夫の唄。風伯(風の神)へ向かって唄われる風迎えの唄は、果たして劉邦の胸中にどのように聴こえたのかだろうか。
   史実を軸に展開されていくものの、あくまで司馬遼太郎の世界として描かれたであろうこのシーンは、私にとってどうしても立ち止まらざるを得ない力があるように思えて仕方がない。今の私は、かような手合いに私自身なっているのでは、という一抹の慚愧が脳裏をよぎる。そのような唄を、私は唄えるだろうか。あるいは、唄を求めずにはいられない時、私はどんな唄をのぞむのだろうか。
   夏侯嬰が唄い、劉邦が聴く光景に、ある詩を私は重ねずにはいられなかった。最後にその詩の一節を紹介したいと思う。皆さんには、毎度言葉の雨を好み好まざる問わず降りしきらせ、時に心苦く思っているのだが、言霊の力を信ずる徒として、皆さんの一シーンのどこかで琴線にふれる言葉が一つでもあれば望外の喜びである。

 


他人のためにも、ことばを持て。
なやみ、苦しんでいる他人のためにも。
そうして、なんでこんなにほがらかでいられるのか、
それをこう話してやるのだ。

くちびるに歌を持て。
勇気を失うな。
心に太陽を持て。

そうすりゃ、なんだってふっ飛んでしまう。

 

ツェーザル・フライシュレン(山本有三訳)

あさきよめ

あさきよめ   室生犀星

 


悔のない一日をおくることも

容易ならざる光栄である。

時間一杯に多くのものを読み、

何かを心に書きつらね、

少しもたるみなくけふを暮さうと、

身がまへてほゐるけれど、

鈍間(のろま)な生涯がのろのろと、

山また山の彼方に続いてゐる。

 


山のあなたに幸ひ住むと、

むかしの詩人はうたつたけれど、

山の向ふも山ばかりが聾(そび)え、

果には波打つ海があるだけだ。

なにごとも為しえなかつたごとく、

為しえなかつたために、

見極めがつくまで生きねばならない。

街のむかふも街だらけ、

果には山があるだけだ、

幸福なんぞあるかないかも判らないが、

生きて生き抜かなければならないことだけは確かだ。

悔のない生涯をとらへることは

その招来に於ては

容易ならざる光栄である。

 

 

 

 あさきよめとは「朝清め」、すなわち朝の掃除のことである。この詩を読めば一目瞭然であるが、直接に掃除をするわけではなく、心の中に溜まった塵や澱みをどう清めるか、という生きることになやむ人々に向けた詩である。「悔いのない一日」を往々にして送れていない私にとって、その事実自体から目を背けないことはとても勇気がいる。だか、この詩は、そんな不甲斐ない私の背をそっと、押してくれるような、不思議な暖かみと勇気をくれる。そのような詩を書いた詩人は室生犀星(むろおさいせい)。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」という一句はあまりにも有名でご存知の方もいるかもしれない。金沢三大文豪の一翼として、現代にまでその思いを残す犀星の生涯について今回は追っていきたい。

 

 

 

 室生犀星。1889年8月1日に石川県金沢市で生まれた。加賀藩足軽頭の父とその家の女中との間の子であるが、生後まもなく、同市を流れ日本海に流れ着く犀川(さいがわ)のほとりに建つ真言宗雨宝院住職、室生真乗の内縁の妻、赤井ハツに引き取られ、いわゆる「私生児」として自らの人生を始める。この時与えられた名は昭道。「犀星」を名乗るのは1906年になってからである。

1902年13歳の時、地元の高等小学校を中退し、金沢裁判所に給仕として勤めることとなる。この時、上司に多くの俳人がおり、犀星の文学への萌芽を促した。新聞などへの投稿もこれ以降のことである。

1910年に作家としての生活を決意し、上京する。それから3年は帰郷と上京を繰り返すような、身のつらさ甚だしい時期を過ごすが、1913年に北原白秋にその才を認められ、白秋の詩集に寄稿することとなる、同じく寄稿を許されていた、のち「日本近代詩の父」と語られるようになる詩人、萩原朔太郎と意気投合し、1916年に共同で同人誌『感情』を発行。1919年までに32号まで刊行し、その間犀星は注文を受けるほどの作家として認知されるようになる。1929年には自身初の句集『魚眼洞発句集』を刊行に至る。

1930年代以降は主に小説作品を多く手掛け、処女小説『性に目覚める頃』(1933年)は自身の幼少期をモデルとした作品となっており、以降も自らの経験に基づいた作品を輩出する。その中でも『あにいもうと』(1935年)、『杏っ子』(1958年)、『火の魚』(1960年)は幾度も映画化やドラマ化がなされた。

1941年には菊池寛賞を受賞した犀星であったが、以降逝去する1962年まで決して故郷金沢に帰郷することはなかったという。理想主義に区別される犀星の作風について、金沢市にある室生犀星記念館曰く「故郷の山河に対する深い思いや、小さな命、弱いものへの慈しみの心があふれ、人生への力強い賛歌ともなっている」と語っている。

 

 

 

さて、「あさきよめ」について、一読して頂く以上に私が語れることもないのであるが、ここでいわれる「山のあなたに幸ひ住むと、むかしの詩人はうたつたけれど」とは、ドイツの詩人、カール・ブッセの訳詞「山のあなた」であると考えられる。訳詞を付けたのは日本の近代文学史の最初期に活躍し海外作品を後の文人たちに紹介した詩人にして翻訳家、上田敏である。以下にその全文を記そう。

 

 


山のあなた   カール・ブッセ(上田敏訳詞)

 


山のあなたの空遠く

「幸」(さいはひ)住むと人のいふ。

噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、

涙さしぐみ、かへりきぬ。

山のあなたになほ遠く

 

 

 

 「あなた」とは「彼方」、すなわち「はるか向こう」という意味である。「山の彼方の向こうには幸せに暮らすという人がいると聞き、我も探しにいくのだが、そんなところは見つからず、涙流して帰ってきた。(幸せがあるという)山の彼方はより遠くなのだろうか」とでも読めようか。多くの評は、この作品は反語的に「幸せは己の内に見出せる」と語っており、それを絶妙に表した作品だと考えているのだが、犀星は、この「涙さしぐみ、かえりきぬ」人に心思うところがあったのではないだろうか。悔いのない一日はましてや、悔いのない生涯なぞ送れようものなら、それは奇跡という他ない。しかし、訪れないのであるから奇跡でもある。人間一人の生は、真っ暗闇の宇宙の中を、自らの感性を頼りに泳ぎ、一筋の光を見つけることだと私個人は思っている。このことを考えるとき、私の頭の中には福島県いわき市生まれの「蛙の詩人」とも名高い詩人、草野心平の詩「わが抒情詩」の冒頭を思い出す。

 


 くらあい天(そら)だ底なしの。

 くらあい道だはてのない。

 


 これは終戦直後、南京から引き揚げてきた心平が焼け野原の日本を見て以降初の詩集『日本砂漠』に収められている。『日本砂漠』については本詩以外未読であるため、語れるところはないが、なんとなく、この二節は今なお人々の生きている世界をメタファー的に叙述しているように私には感じられる。そんな世界を一人ぼっちで歩かねばならない人は、いったい喜びや幸福の10倍も、100倍も、彼の人を虎視眈々と狙い、渇きや絶望を与えうる人生(そうでない人は「幸いである」)に、どう立ち向かってゆけばよいのか。現実は現実で否定しようもないのだが、それを踏まえてなお「生きて生き抜かなければならないことだけは確かだ」と背を押す室生犀星の「あさきよめ」だと私はとらえている。すっと、背筋を伸ばしてみようと(たとえそれが一瞬であろうとも)読後思わせてくれる不思議なまろみを室生犀星は与えてくれる。

ピエロとピエレット

 

月の光の照る辻に
ピエロさびしく立ちにけり

ピエロの姿白ければ
月の光に濡れにけり

あたりしみじみ見まはせど
コロンビイヌの影もなし

あまりに事のかなしさに
ピエロは涙ながしけり

  「月夜」(堀口大学『月光とピエロ』より)


 ペール・ラシェーズ墓地。それは、パリ郊外にあるパリ最大の墓地で、そこには数々の著名人が眠っている。ピアノの詩人と呼ばれるショパンに、「カルメン」や「アルルの女」で名高いジョルジュ・ビゼー、その他種々の偉人たちに加え、ヴィクトル・ユーゴ―の『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・ヴァルジャンもここに眠るとされる。
 そんな歴史高い場所に、死後、まことの契りを交わした二人がいる。フランス人の彫刻家・画家にして、「狂乱の時代」に売れっ子となったマリー・ローランサンと、ポーランド人の詩人・作家にして、「シュルレアリズム」という語を生み出し、「キュビズム」の先駆者の一人でもあるギヨーム・アポリネール。二人の浮世での邂逅は空蝉の如くありながら、きわめて純粋な魂同士の恋人であった。そして、そんな二人の一生を身近に見つめていた日本人が一人いた。彼の名は堀口大学(1892~1981)。象徴主義の詩人、歌人にしてフランス詩を日本にもたらし日本の近代詩に多大な影響を与えた男。フランス文学の多くを翻訳し、特にアポリネールの詩をこよなく愛した。大学は二人の悲愛を眼前にし、千々乱れる感情とともに、アポリネールへの鎮魂歌であるのか、スペイン風邪に倒れたアポリネールの死後翌年に処女詩集『月光とピエロ』を発表する。ピエロとは、元はイタリア喜劇に登場する道化にしてアルルカンとも呼ばれる。真っ白なおしろいで顔を隠し、滑稽なさまで人々に笑われることによって身すぎ世すぎを為す。本作内で言及されるピエロは、その身を自ら貶めることで人々に笑われるというピエロの悲哀を強調しているが、それは抽象的な存在としてのピエロではなく、大学は、アポリネールをピエロ、ローランサンをそのピエロの恋人、コロンビーヌ(ピエレット)と見立て、両人を象徴の世界で踊らせた。
 私は思う。一体どのような物語をして彼にこの詩を書かせたのだろうか。今回皆さんに紹介するのは、水面に映え照る夜月の如く、妖しく揺れ動くローランサンアポリネールの物語である。


 ギヨーム・アポリネール。彼は1880年にイタリアで生まれ、18歳の時パリへ赴く。当時、ピカソシャガールデュシャンといった名立たる芸術家の中で、彼は同じく人気の部類に所属していた。一方、マリー・ローランサンアポリネールから遅れて三年、パリで生まれた。幼少期から絵画を学び、その過程でパブロ・ピカソとともにキュビズムを確立させた伊達男、ジョルジュ・ブラックに見出されその道で生きていくこととなる。
 二人の出会いはこの20世紀初頭の天才二人の手引きによってであった。1907年、既にパリのモンマルトルに位置する芸術家たちが暮らす集合住宅「バトー・ラヴォワール(洗濯船)」にてローランサンアポリネールは出会った。そのとき、ピカソとブラックはアポリネールに対し「もうじきお前さんの将来の嫁さんがここに現れるぞ」と言ったといわれる。ローランサンは24歳、アポリネールは27歳に時であった。
二人はたちまち激しい恋に落ち、婚約の契りまで結ぶこととなったのだが、二人の出会いから4年後、ある冤罪事件が二人を今生の世での逢瀬に終止を打った。いわゆる「モナリザ盗難事件」である。1911年8月22日、ルーブル美術館からモナリザが無くなったとして国境の検問及び捜査が始まる。その過程で、同年9月6日にアポリネールの失踪した仲間の一人が些末な小物を同美術館から盗み売りさばいていた咎で、その共犯としてアポリネールが浮上し、翌日から一週間の拘束を受ける。当時もともと人気作家であったため、その間、新聞社やマスコミは彼のありとあらゆる素性を調べ上げ世に送り出した。それは、当時差別の対象であった「ててなしご(私生児)」であるということも含めて。
 幸いにも、同じく芸術家の駆け出しであったローランサンとの関係については言及されなかったものの、その事件故ローランサンの母、ポーリーヌは娘と彼との交際及び結婚に反対しつづけ、二年後その意志を曲げぬまま死去した。ローランサンの悲しみはこの時ほど深いことはなかったという。
 アポリネールは冤罪であったものの、それをきっかけに人生の大きな「なにか」を失ってしまった二人はそのまま破局を迎える。ローランサンの母の死と同年、アポリネールローランサンとの失恋を語り、後世にシャンソンとしても伝わる彼の代表作「ミラボー橋」をその詩集『アルコール』にて発表。以後彼が1918年スペイン風邪にてローランサンのちょうど半分の寿命でこの世を去る時まで、彼の心には永遠にローランサンが残っていた。というのも、その二年前にアポリネール第一次世界大戦の対ドイツ戦線に志願兵(一説にはローランサンとの破局後、つまらぬ結婚をしたものの彼女を忘れられぬ故の自暴自棄ともいわれている)として赴いた時、頭部に銃弾を受け平地へ戻ってきたが、常に戦場で想っていたのはローランサンその人であったという。死の直前、アポリネールの寝室には1909年ローランサンが正に運命の人であった時代に彼女自身が二人と、二人の友人を描いた絵画を自室に掲げていたとも伝えられる。
 一方、ローランサンアポリネールとの破局後、1914年、つまらぬ男と今世での契りを交わしていた。それは年上のドイツ人男爵であった。彼はいつも飲んだくれでローランサンをろくに構いもしなかった。彼とは6年後の1920年に離婚し、その後終生独身を貫くのであるが、その当時、まさに世界大戦時で、ドイツ人と結婚しドイツ国籍を得ていたローランサンはスペインへ亡命せざるを得なかった。だが、奇妙なことに、大学の父で外交官の九萬一(くまいち)の赴任先がスペインであり、そこに同行していた大学は、このヨーロッパの半島でローランサンと出会う。ローランサンはこの時、アトリエに誘うほど大学を可愛がり、フランス一の詩人として、かつての恋人であったアポリネールの作品を紹介した。ちなみに、大学は幼少時に産みの母を失い、父の後妻であるベルギー人の母の影響でフランス語の習得に力を入れていた。
 このローランサンは1956年、72歳で死去するが、その遺言には、白いドレスを身に着け、手元には赤のバラ、そして胸の上には若かりし頃、アポリネールから送られた未発表の詩や手紙を置いて、アポリネールと同じく、パリ郊外のペール・ラシェーズ墓地に埋葬してほしいと書かれていたといわれ、そのようにされた。二人が再び出会うまでには、死を通過せねばならず、またその歳月も先だったアポリネールの人生の倍必要であったが、今では、二人は青春の地であったパリの地で悠久の時をともに過ごしている。


 さて、堀口大学の処女詩集『月光とピエロ』には、三度映画化もされた小説『濹東綺譚』の著者で反骨にして耽美主義の代表である永井荷風(1879~1959)が序文を寄せている。荷風いわく「君は何故におどけたるピエロの姿としめやかなる月の光とを借り来りて其の吟懐を托し給へるや」といった。これに対する返答ではないが、大学はこの年、すなわちアポリネールが死去した翌年に、彼について「お前は新美学の探究者であった。……お前は死んだのだ。1918年11月9日、それは新芸術の喪であった。それは私の心の喪であった。それから一年経った。今日は1919年11月9日だ。そしてなおもなつかしく私はお前を思い出す」と語っている。
 当時、ローランサンは健在で、大学がローランサンの心中にアポリネールが存在し続けていたことを知っていたかは想像でしかないが、この詩集の一つに二人に対する大学の願望とも予見とも思えるような詩がある。ここではまだ言い足りないことがいくつかあるが、最後にその詩を以て二人の魂の逢瀬と大学のまなざしに思いを馳せたい。


月の光に照らされて
ピエロ、ピエレット
踊りけり、
ピエロ、ピエレット

月の光に照らされて
ピエロ、ピエレット
歌いけり、
ピエロ、ピエレット

  「月光とピエロとピエレットの唐草模様」

 

参考・引用

 

三澤洋史氏

http://cafemdr.org/RunRun-Dairy/2016-3/MDR-Diary-20161017.html

入口紀男氏

http://www.asoshiranui.net/pierrot/