唄
「人間はな」
言ってから、劉邦は言葉をとぎらせた。人が悲しんでいるときに顔をすり寄せてきて、お悲しいことでございましょう、とおっかぶせてくる奴ほどこまった手合いはない、と言いたかった。
「こういうときにはな」
劉邦はまた黙った。何をいっていいのか、言葉がない。
風が、帆をゆさぶって、鳴った。
「唄だ」
唄はこういうときのためにあるのだ、と劉邦はいった。嬰よ、うたえ。
嬰は、風にむかってうたった。
司馬遼太郎の唯一の長編純中国歴史小説『項羽と劉邦』の一節である。本隊劉邦軍が項羽軍に対し敗走に敗走を重ねる中、劉邦軍の別動隊として北方戦線を担い常勝軍団でもあった韓進軍、韓進に対し、果たして漢の頂点に自らが君臨していてよいのかと逡巡する劉邦は、彼が無頼漢としてゴロツキ暮らしをしていた時よりの同志にして劉邦軍付武将の夏侯嬰に唄を求めた。唄われるは、故郷泗水に伝わる漁夫の唄。風伯(風の神)へ向かって唄われる風迎えの唄は、果たして劉邦の胸中にどのように聴こえたのかだろうか。
史実を軸に展開されていくものの、あくまで司馬遼太郎の世界として描かれたであろうこのシーンは、私にとってどうしても立ち止まらざるを得ない力があるように思えて仕方がない。今の私は、かような手合いに私自身なっているのでは、という一抹の慚愧が脳裏をよぎる。そのような唄を、私は唄えるだろうか。あるいは、唄を求めずにはいられない時、私はどんな唄をのぞむのだろうか。
夏侯嬰が唄い、劉邦が聴く光景に、ある詩を私は重ねずにはいられなかった。最後にその詩の一節を紹介したいと思う。皆さんには、毎度言葉の雨を好み好まざる問わず降りしきらせ、時に心苦く思っているのだが、言霊の力を信ずる徒として、皆さんの一シーンのどこかで琴線にふれる言葉が一つでもあれば望外の喜びである。
他人のためにも、ことばを持て。
なやみ、苦しんでいる他人のためにも。
そうして、なんでこんなにほがらかでいられるのか、
それをこう話してやるのだ。
くちびるに歌を持て。
勇気を失うな。
心に太陽を持て。
そうすりゃ、なんだってふっ飛んでしまう。
ツェーザル・フライシュレン(山本有三訳)