言葉やら人やら私について

歴史と言葉と音楽を愛する学生が、その時々で感じたことや学んだことを忘備録的に書き留めていくブログです。テーマは散文的でありますが、一つの記事できちんと完結するよう心掛けます。

「きちんと生きていく」

 

(中略)

ああああああ。
きのふはおれもめしをくひ。
けふまたおれはうどんをくつた。
これではまいにちくふだけで。
それはたしかにしあはせだが。
こころの穴はふさがらない。
こころの穴はきりきりいたむ。


 これは以前にもその冒頭を紹介した草野心平の詩『日本砂漠』から「わが抒情詩」の末尾である。わたしが最近送っている茫洋とした日々に重なるような気がして、久々にこの詩が目に入ったついさっき、立ち止まらずにはいられなかった。

 突然だが「生きる」とはどういうことだろうか。何が目的で、どのようにすればよいのか。また、そこに答えはあるのだろうか。いや、そもそも答えがなければならないのだろうか。学生として最後の年を迎え就活や今後の人生について思索するなかで、「生きる」ことを問い直すことが今求められているように感じられ、久々に執筆してみようと思い至った。そして、それは例の如く先人たちの言葉の海から材料を拾い上げることにしよう。

 私がいくつかの詩に触れてきているというのはこれまでの投稿を読まれた方であれば判るだろうが、「生きる」ということに言及した詩は数多にある。その言葉通りの題を持つ最も有名であろう詩は谷川俊太郎の「生きる」ではないだろうか。ここでは、シンプルに人の五感に訴え想起の潤いに富んだ「生きる」が描かれている。


生きているということ
今生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをするということ
あなたと手をつなぐこと

(中略)

すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深く拒むこと

(中略)

人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ


 一方、谷川俊太郎の盟友にしながら13年前に逝去した女流詩人、茨木のり子の一篇「内部からくさる桃」には、より厳然たる「生きる」ことのリアリズムと恐ろしさ、そしてそれに立ち向かえという訴えが描かれている。


単調なくらしに耐えること
雨だれのように単調な……

(中略)

ひとびとは探索しなければならない
山師のように 執拗に
<埋没されてあるもの>を
ひとりだけにふさわしく用意された
<生の意味>を

(中略)

内部からいつもくさってくる桃、平和

日々に失格し
日々に脱落する悪たれによって
世界は
壊滅の夢にさらされてやまない


 決して多くはないけれどもいる大切と思える人々はここ遊学の地にはおらず、地道に論文を執筆している現状は、まさに「単調なくらし」に耐えているのかもしれない。これが永遠に続くのであれば、ひたすらにこの等速直線運動は無限のなかを進みゆくだけであるが、有限の時に生きるわたしたちはその結末と次の始まりを見届ける義務があろう。のどがかわきつづける限りは。故に「探索しなければならない」。単調さの奥の奥底に流れる自分を形作るものを。まだ見つけられていない自分自身のことばを。その時、多様な解を提示する世界は、一見、官能的な紫煙の如く我々に忍び寄ってくるが、それは「夢」かもしれないことを知っていなければ「生きる」ことはより困難なものかもしれない。そのような悪をわたしたちは注意深く拒んでゆかねばならない。わたしが「わたし」であるか。今まさに、わたしはこれを見つけるのではなく「定めよ」とわたし自身に投げかけられているのだ。

 これらのことばは人によって金言にもなれば、くだらないものともなりうる。わたしには諫言であり手段であり轍である。そのように思索する内ふと、「きちんと生きていく」という言葉が浮かんできた。仕事を持ち、周囲の人を愛し、健康に留意しつつも時に紫煙に耽り、仲間と声を合わせ歌を歌い、そうやって幸せである時間の比率が不幸せな時よりも多くなる生活。わたしにとって「いきる」ことに対する一つの「応え」は「きちんと生きていく」ことで、単純に言えば「幸せに生きる」ことであろう。単調に落ちゆく雨だれの中にも色彩が生まれるかどうかは、きっと「きちんと生きていく」ことに共鳴するのだろうと思う。