言葉やら人やら私について

歴史と言葉と音楽を愛する学生が、その時々で感じたことや学んだことを忘備録的に書き留めていくブログです。テーマは散文的でありますが、一つの記事できちんと完結するよう心掛けます。

戦後現代詩の長女

なれる

 


おたがいに

なれるのは厭だなと

親しさは

どんなに深くなってもいいけれど

 


三十三歳の頃 あなたはそう言い

二十五歳の頃 わたしはそう聞いた

今まで誰からも教えられることなくきてしまった大切なこと

おもえばあれがわたしたちの出発点であったかもしれない

 


狎れる 馴れる

慣れる 狃れる

昵れる 褻れる

どれもこれもなれなれしい漢字

 


そのあたりから人と人の関係は崩れてゆき

どれほどたくさんの例を見ることになったでしょう

気づいた時にはもう遅い

愛にしかけられている怖い罠

 


おとし穴にはまってもがくこともなしに

歩いてこれたのはあなたのおかげです

親しさだけが沈殿し濃縮され

結晶の粒子は今もさらさらこぼれつづけています

 

 

 

   上記の詩は茨木のり子の死後、東伏見の自宅にて発見され刊行された詩集『歳月』の一篇「なれる」である。この詩集は生前に発表されてきた諸々の詩集とは志向性を異にし、49歳の時肝臓がんにて死別した夫へと書き綴った『会話』である。『自分の感受性くらい』や『倚(よ)りかからず』という代表作をはじめ、戦前から新世紀の頭まで時代を走り抜いた詩人であるが、松岡正剛曰く「茨木のり子はどう見ても『ふつう』なのではない。普通ではなく、ひょっとすると、こんな言葉はないけれど、なんというか『負通』なのである。負をかこつのではない。ずうっと自分の生きてきた世に負が通ってきたことを詩う」。

   では、茨木のり子という『現代詩の長女』はどうやって詩を志すようになったのか。今回は茨木のり子について見ていこうと思う。

 

 

 

   茨木のり子は1926年大正15年、すなわち昭和元年に大阪で生まれた。父親が医者であり度々転勤による引越しが相次ぐ幼少期であり、5歳の時に京都、その翌年に愛知県へと移り、大学入学までは現西尾市で育つ。1937年には11歳にして実母を亡くし後妻を受け入れるという経験も茨木のり子にとって決して小さくない出来事だったであろう。しかもそれは日中戦争開戦の年でもあり、45年の敗戦までの暮らしは茨木のり子の作品のいくつかにも深く関わっている。

   1943年、茨木のり子は帝国女子医学薬学理学専門学校(現東邦大学)の薬学部へ進学する。その三年後に繰り上げ卒業をするのだが、この間空襲や学徒動員、玉音放送やらの経験は『わたしが一番きれいだったとき』の契機となったように思う。上記の「負通」の芳香湧き上がる詩でもあり、その一節は以下のようである。

 


わたしが一番きれいだったとき

わたしの国は戦争で負けた

そんな馬鹿なことってあるものか

ブラウスの腕をまくり

卑屈な町をのし歩いた

 


   卒後、一時期劇作を志すこともあったが、1949年茨木のり子が23歳の時、医者の三浦安信と結婚して埼玉県所沢市へと移る。その翌年に詩の専門誌「詩学」に初めての詩「いさましい歌」を掲載しデビューする。その三年後の1949年には川崎洋と共に詩誌「櫂(かい)」を創刊した。この詩誌はのちに谷川俊太郎なども名を連ねる戦後日本における誌界の屋台骨ともなった。それから茨木のり子は破竹の勢いで55年に第一詩集『対話』、58年に第二詩集『見えない配達夫』を刊行し二度の転居も行う。しかし、実父の死を受け65年に刊行した詩集『鎮魂歌』、夫の死の二年後発刊し天声人語にも取り上げられた詩集『自分の感受性くらい』もこの時代に登場する。以降は単身で現西東京市東伏見を拠点に活動し、晩年1999年73歳の時に詩集『倚りかからず』を刊行し一境地への至りを見せた。逝去は2006年2月、東伏見の自宅にて。くも膜下出血であったが親戚が発見したときは寝室で眠るようであったという。

 

 

 

   今なお強く人々の心に寄り添う力と香りを放つ茨木のり子であるが、実は50代から韓国語を習い出し、その10年ばかり後には現代韓国詩の翻訳等も行っており、かなりの韓国通でもある。1986年には自身の韓国への関わりや思い、実際に韓国を旅した時に出会った人やモノとの交流のさまを綴った書籍『ハングルへの旅』を上梓している。昔からの憧れであったり歴史的興味であったりその動機は様々ありつつも、韓国語を習う理由に対し「隣の国のことばですもの」とふんわり丸め込む茨木のり子の心は常に隣人との距離感が自然と入り込んでくる。それはまさに『おたがいに なれるのは厭だなと 親しさは どんなに深くなってもいいけれど』という亡き夫のことばに支えられて人生を過ごした茨木のり子の愛の発露なのであろう。