言葉やら人やら私について

歴史と言葉と音楽を愛する学生が、その時々で感じたことや学んだことを忘備録的に書き留めていくブログです。テーマは散文的でありますが、一つの記事できちんと完結するよう心掛けます。

知命

知命茨木のり子

他のひとがやってきて
この小包の紐 どうしたら
ほどけるかしらと言う

他のひとがやってきては
こんがらがった糸の束
なんとかしてよ と言う

鋏(はさみ)で切れいと進言するが
肯(がえん)じない
仕方なく手伝う もそもそと
生きているよしみに
こういうのが生きているってことの
おおよそか それにしてもあんまりな

まきこまれ
ふりまわされ
くたびれはてて

ある日 卒然と悟らされる
もしかしたら たぶんそう
沢山のやさしい手が 添えられたのだ

一人で処理してきたと思っている
わたくしの幾つかの結節点にも
今日までそれと気がつかせぬほどのさりげなさで


孔子曰く、五十にして天命を知る』というが、今と過去ではあらゆる尺度も環境も異なる。しかし、ある一定の人々はみずからか他人からか、枷を一身に引き受けその身を酷使する。その様子といったら、(※)怒りながら悲しんでいるような、戸惑いながら決意しているような、突き放しながらしがみついているような。拒みながら待っているような、謝りながら責めているような、途方に暮れながら主張しているような。けれども、人は皆、やわらかいいのちを持っている。故に、愛される。愛されることから逃れられない。かような愛が、たくさんのやさしい手なのかもしれない。そこに幾ばくのとげが待っていようとも。

この世はかくも儚きものなり。太陽が照らさぬ地は真っ暗な闇ばかり。されども、そこに一輪の花が咲き一隅を照らす。日々生きる中で無理は禁物だが、人皆一隅たれば、そこに目を見やるものたちを顧みるのもどうだろう。

 

※「やわらかいいのち」(谷川俊太郎)より