言葉やら人やら私について

歴史と言葉と音楽を愛する学生が、その時々で感じたことや学んだことを忘備録的に書き留めていくブログです。テーマは散文的でありますが、一つの記事できちんと完結するよう心掛けます。

死者の贈り物

まっすぐに生きるべきだと、思っていた。
間違っていた。ひとは曲がった木のように生きる。
きみはそのことに気づいていたか?


これは詩人、長田弘(1939/11/10〜2015/05/03)の作品「イツカ、向こうで」の一節である。詩集『死者の贈り物』(2003年、みすず書房)に編纂されており、「いずれも、親しかったものの記憶にささげる詩として書かれた」(あとがき)。親しかったものとは、一人一人にとって大切であったり、どうでもよいものであったり、とにかく文字通り「親しかった」ものたちである。親や兄弟姉妹、友人に知人であったり、お気に入りのカフェや、昔よく聞いていた歌謡曲や。長田弘は死者ですら、人間の生きている風景にいるという。「死んだ人でも、その人が自分にとって目印である限りは、そこにいなくともそこにいるし、そういうふうなことっていうのはあるんじゃないでしょうか」と。

 

人の生には意味がない。いや、意味がないという意味としてはあるだろう。しかし、世界から人一人の生を覗かれたとき、我々は声高らかに宣言できるだろうか。私の人生は意味があった、と。
大事なことは意味があるかではなく、意味を見いだせたかではないだろうか。まっすぐに生きようとすることは、みてくれはかっこいい。しかし、色を、美しさを感じるには人はしわを刻まなければならない。曲がった木には味がある。喜ぶためには哀しみを知っていなければならない。為るように育てればいい。ただ、きちんと食べきちんと飲むことを忘れさえしなければ。


悲しむ人よ、塵に口をつけよ。
望みが見いだせるかもしれない。
ひとは悲しみを重荷にしてはいけない。

「海辺にて」(『人はかつて樹だった』)